訳文の文末の処理

 

訳文の文末の処理

 

日本語の訳文はとかく「〜である」「〜であった」「〜です」「〜でした」「〜なのだ」といった単調で硬い調子の文末に終わりがちです。

 

できるだけ日本のすぐれた作家の文章を読み、文末の上手な処理法を学ぶようにすることが望ましいのです。

 

文末に現在形を使うと臨場感を盛り上げ、迫力がでるとか、名詞止めにすると余韻を持たせることができるなども参考になる注意です。

 

文末に現在形を使うと、例えば<その声は不意に彼の頭の上で聞こえた。敵の声だ>のように迫力が出ます。また文末を名詞止めにすると、例えば<専門家によれば、来年は景気回復(とのこと)>のような手法です。

 

これは上手に使うとイメージが鮮明で、余韻を持たせることができますが、多用すると文章の品位を下げる恐れがあります。

 

あるいは<地上には車が走っていた。空には飛行機が飛んでいた>を、<地上には車が走り、空には飛行機が飛んでいた>のように、動詞の連用形で文をいったん中止しながら、次に続けていく手法もあります。

 

George was eight years of age when the laying of the railway was begun and he used to go every day to the outskirts of the village to watch the construction work.

 

As the wagons were travelling downhill, they ran without assistance. The small yellow straw hats the workers were wearing remain even today a vivid memory in a corner of his mind.

 

鉄道敷設の工事が始まったのはジョージが八つの年だった。彼は毎日村外れへその工事を見に行った。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。未だにジョージの頭のどこかにはっきりした記憶を残しているのは、そのとき労務者たちのかぶっていた小さい黄色いあの麦藁帽子・・・・・

 

ただここで注意を要するのは、「〜である」「〜です」の文末部の不統一です。次の文章をみてみましょう。

 

戦争で一人息子を失った父親は、山の中でやもめぐらしをしていました。しかしそのうち、山で小熊をひろった。

 

このように、「〜です」と「〜だ」との混用は読み手に一種の心理的抵抗を与えます。たとえその意味は正しく伝わっても、不調和で、相手に抵抗を与えるような文章は悪文の一種です。

 

「〜です」か「〜だ」のどちらかに決めて、それを最後まで押し通さないといけません。

 

なお、文末処理法を俳句を例に説明しておきましょう。俳句では最後が「かな」で終わることが多く、「遠山に日の当りたる枯野かな」(高浜虚子)にその例がみられます。

 

ところが常に「かな」ではなく、「大榾をかへせば裏は一面火」(高野素十)のように名詞止めにすると、暖炉にくべてある大きな丸太の榾木を裏返した時の赤々とした火が目に焼きつくようです。

 

また、「づかづかと来て踊り子にささやける」(高野素十)と現在時制にすると、まるでドガの踊り子の画を見るように、臨場感があります。更に「風の吹くかな/柳かな」を連用形で続けて、「風吹いて山のようなる柳かな」(稲田青)とする手法もよく用いられます。